応援隊・支援員インタビュー「土と風‐地域を耕す人びと-2014-」  Vol.11石巻市北上地区

宮城県漁協北上町十三浜支所 元運営委員長・佐藤清吾さん(73)
〔プロフィール〕1941年10月生まれ、石巻市北上町出身。宮城県漁協北上町十三浜支所運営委員長(2014年6月退任)として、組合員300人とともに震災直後から生業(漁業)復活を目指した。まちづくり委員会委員長。郷土史家として「北上方言集」を出版。

北上地区復興応援隊・佐藤尚美(なおみ)さん(41)
〔プロフィール〕1973年3月生まれ、石巻市蛇田出身。結婚して北上白浜地区へ。震災後はまちづくりや白浜再生に携わる。女性住民を中心に「コミュニティー・なりわい・集落」の3つの再生を柱に活動するまちづくりグループ「WE ARE ONE 北上」代表。

復興応援隊は
地域の価値を見出し、住民の力を引き出してくれた
縁の下の力持ち

郷土芸能の復活が住民を繋いだ
―それぞれどのような活動(仕事)をされてきたのでしょうか?

佐藤清吾(以下清吾)さん 「宮城県漁業組合北上町十三浜支所運営委員長として、震災直後から地域の生業である漁業復活の指揮を取ってきました。北上には十三浜という名前の通り十三の浜があって、それぞれにワカメ、昆布、ホタテが主な生産物で、あとはホヤやカキなど養殖をしたりアワビ、ウニを採ったり。刺し網、サケの定置網も地区の生業だったんです。

以前にも組合長の経験があったのですが、実は津波で家族も家も失くして気力もなく、とても務まらないと思ったんです。でも、漁民たちから『この惨状から逃げないでくれ』と懇願されて…。これは宿命だと思って漁業の復興に打ち込む形になりました。運営委員長は2014年6月に退きました。」

佐藤尚美(以下尚美)さん 「“WE ARE ONE 北上”は2012年6月、北上地区復興応援隊は2012年12月から活動に携わっています。最初は女性4人で何から始めればいいのか…という感じでした。でも地元住民でもある私にとっては、まちのことについて一緒に考えてくれる仲間ができたんですね。担当は子どもの学習支援ですが、最初の活動として、年末の「きたかみ復興市」に県外から100人のお客さんを呼ぼうという計画があったので、みんなで一緒に作り上げたのを思い出しますね。」

―お2人の出会いや活動の関わりは?

清吾さん 「尚美さんとは、震災前からまちづくり委員会で知り合っていました。委員会でもかなり厳しい意見を言う人だなぁと思っていましたよ(笑)」

尚美さん 「一緒に活動したのは、2013年5月の北上春祭りでした。大室南部神楽という伝統芸能を地域の若者たちで復活させました。」

清吾さん 「実は私の生家が大室南部神楽のオーナーだったんです。大正時代に岩手県から神楽の指南役を連れて来て、地域の若者に習わせたのが始まりです。当時の復興応援隊の1人、日方さん(前出リンク)に、お茶飲み話で説明したら、教育委員会に大室南部神楽復活の支援をもらえるよう掛け合ってくれたんです。」

尚美さん 「それで北上春祭りでは、私の地域の白浜地区の獅子舞も復活させようと盛り上がった。 津波で獅子頭を失くしていたけど、支援してもらえて一から作ることができました。

白浜地区の獅子舞は、集落の各家をまわって厄払いし、ごちそうを頂くんです。各家の奥さま方は得意な料理を出すのだけど、最後の方の家は苺だ、ケーキだとなって(笑)」

清吾さん 「毎年、どの家が何をごちそうするのか競争になるんだよね。震災前は、そうした地域の行事を、面倒くさい、煩わしいと思う人が多かったが、あのとき祭りが復活したことで、今はそれが地域をつなぐ媒体になっている。」

尚美さん 「震災を機に、私たち世代も清吾さんたちが昔からやっていたことを良いなと思えるようになった。神楽で、小学生も80代も年代関係なく皆が踊る姿が本当に楽しかったんです。」

―復興応援隊が地域にもたらしたものは。

清吾さん 「あの春祭りでは、『皆の力を結集させれば大きなことができる』と身を以て知ったんです。来た人が喜んでくれて、自分たちにとっても『こんなに価値があるものだったのか』と改めて思いました。子どもに伝承したい、津波から生き残った人間が活動しようという意識が生まれた。

応援隊は、祭りの段取りから、直会、懇親会まで来てくれて、そういう積極性が地元の人間にとってありがたいことでした。自分たちも気が付かなかった地域の価値を認めてくれて、住民が力を発揮する縁の下の力持ちになってくれたんですよ。

今、大室南部神楽は、震災前は考えもしなかった舞台でやっているんですよ。先日は渋谷公会堂、代々木公園、今度国立劇場で踊ることが決まったんです。舞台練習のために、家を失って土地を出て行った人も集まってくる。小学生も楽しそうでね。

ばらばらになった地域住民のコミュニケーションを復活させる接着剤の役割をしてもらった。応援隊の力をもっと活用させてもいたいと思っています。」

尚美さん 「復興やまちづくりというのは、建物を造るとか観光地化するということではないことは、皆早くから気が付いていたんです。これまで以上のものを作るのではなく、これまであったものを活かすまちづくりを目指していこうと。祭りにしても、住民が楽しんでいれば、共感した人が他からも来る。それで良いと思えるようになったんですよね。」

―乗り越えてきたこと、これから課題だと思うことは?

清吾さん 「津波で壊滅状態にされて生産現場もなく、設備も船も人手もないが、地域には『ここでなければ暮らせない』という専業漁師が多くいたんです。生業の復活のために生産活動の第一歩は、皆一緒に踏み出すことに決めました。残った漁具や船等、全て分かち合って共同で作業しました。抜け駆けはだめ。『そんなことやってられない』という声もあった。でも世界中の人たちが被災地を助けたいと支援してくれているのに、『自分たちが助け合えないのはおかしい』と諭したんです。

元々漁師は人と一緒に作業する意識はありません。自分のやり方、責任でやるし、それが仕事のエネルギー。いつまでも一緒にできないのを知っていたから、グループは1年で事実上解散しました。そうしたら2012年春には、ワカメに例年の3倍の値がついて生業の復活に弾みがついた。復興していくには、地域性やそこに住む人の特徴を考慮したやり方があるんです。」

尚美さん 「行政のやり方にただ従うのではなく、自分たちでやり方を提示していかないと。清吾さんも私も家族も家も失くして、いまだに見つからない。被災した状況はそれぞれで、家族が残った人たちもいろいろ問題を抱えているんです。それを同じ線を引いて進めていく復興には違和感があります。

活動していると、そもそも復興応援隊という自分たちが本当に必要なのか分からなくなることがあります。路頭に迷ったとき、『とりあえず清吾さん家に行こう』となる(笑)。」

清吾さん 「尚美さんは復興応援隊の中でも、震災以前からまちづくりに携わっていたので、頼りにされているんじゃないかな。集まればたわいもない話しばかりだけど、みんなの思いや役割を再認識していくことになるんだよね。」

―今後の目標は?

尚美さん 「私が『これまでの私』でできることは今年で終わったと思うんです。今後は、住民として、復興応援隊として、もっと学ばないといけないなと。

復興は住民自身でやっていくこと。北上に嫁いだとき、北上の人たちには天性の明るさがあると思いました。年配の夫婦は仲良く、イケメンも多い(笑)。北上は他地域よりも早く復興するのではと感じていました。自分たちでできる力をつけるためのスキルをつけないといけないし、住民同士のコミュニティーを強化していくことを目指していきたいです。」

以上

2014年12月取材

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